2019年10月4日金曜日

和納遺族会戦没者法要へ

和納遺族会戦没者法要 お斎の様子
願善寺 お堂

きょう10月4日は、和納遺族会戦没者法要に来賓として出席しました。住職よりお経をあげていただいた後、焼香、そしてお斎の際にひとこと挨拶をさせていただきました。

以下、挨拶の要旨です。


紹介いただきました新潟市議会議員の小林弘樹です。本日はお招きいただきましてありがとうございました。

まず戦没者の方々にあらためて追悼の意を表したいと思います。

わたし自身は昭和58年生まれ、ということもあって戦争が終わってずいぶんと時間が経ってからの生まれです。戦争の記憶というのを持ちません。

ただ、わたしの祖父・小林強は昭和2年9月24日生まれで敗戦時には17,8歳でした。もっとも多感な時期を敗戦前後の混乱期に過ごしました。

わたしは両親が共働きだったこともあって、小学校から帰ってくると、祖母または祖父と過ごすことが多かったです。それでも戦争の話、というのはほとんど聞いたことはありませんでした。

祖父は孫のわたしからみるととても働き者にみえていました。日中、仕事が終わって帰ってくると田んぼや畑に出かけて行きました。飲みに出歩くこともほとんどありませんでした。

土日も農作業をして過ごしていて、なにか〈娯楽〉や〈消費〉をして楽しんだり、遊んだりといった姿はわたしの記憶にありません。働き通して生きたのが祖父だったように思います。

すでに亡くなっており、ここ願善寺に眠っているので、法要の前に墓前で手を合わせてきました。

そんな祖父との記憶で、唯一、なにか楽しい思い出というとひとつだけあります。それは中学生の頃に連れて行ってもらった沖縄旅行です。

ひめゆりの塔をはじめ戦争の爪痕をいっしょにみて回りました。恩納村の万座毛、ほかにもいくつかの観光地を見て回りました。

これが祖父と過ごした旅行、〈娯楽〉の唯一の思い出です。

無口だった祖父が伝えたかったものはなにか。きょうこの法要に参加させていただき、ふたたび自分に問われている気がしました。

さて、わたしは春の市議会議員選挙で当選させていただき、任期がはじまって5ヶ月が過ぎたところです。まだまだ駆け出しではありますが、まずは家族が平和に過ごせること、地域の方々が平和に過ごせること、その先が世界の平和につながるよう活動して参りたいと思っています。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。本日はありがとうございました。


以上です。おおよそこんな内容で挨拶させていただきました。

和納遺族会の概要を会長の幸田赳夫さんからもらったのでここにも記録しておきます。

[設 立]昭和21〜22年頃
[会 員]和納地区在住の遺族、現在は57名
[目 的]英霊の冥福を祈り、世界平和を願い、会員の生活の安定と相互の親睦を図る事業を行う
[事 業]護国神社参拝(6月)、戦没者追悼法要(10月)、忠魂碑前において終戦記念式典(8月15日の忠魂祭)など。
[戦没者]日清戦争2名、日露戦争10名、潜水艦事故2名、満州事変1名、支那大東亜戦争108名、不明3名。計126名(柱)。

概要は以上です。

お斎で遺族の方に挨拶して回ると、祖父の同級生がいました。その人は大東亜戦争で満州に渡ったそうです。戦地から祖父と手紙のやり取りをしたこともあると話していました。

当然ですが、やはり祖父にも戦争に関する記憶はあったことでしょう。

その人に当時のことを聞こうとしましたが、口を紡いで表情が変わるのがわかったので、それ以上は聞けませんでした。

「おれは戦闘に加わったから。これ以上はあれだから。仲間は殺され、置いて帰ってきたから」

戦争は国家による最大の人権侵害です。

対戦した両国国民の人生を著しく狂わせる行為です。戦没者はなにより、帰還兵、遺族に決して消えない深い傷を残します。

戦争に勝った負けた、国家間での賠償や謝罪は済んだということもあるのかもしれません。しかし、それとは別に両国国民は決して癒えることのない傷を負うことになります。そんなこともしっかりと胸に刻みながら活動していけたらと思いました。